どうして自分を傷つけてしまうのか
以前親知らずを抜いたのですが、歯茎への麻酔がなぜかとてもとても痛くて、その上なんだか気持ち悪くなって、「なんだこれ!」というパニックからか人生初の過呼吸になってしまいました、、、
被災地にいなくても心は被災する。
もう4月も半ばを過ぎましたね。今年度はよいスタートを切れましたか?
私はなぜだか調子が出なくて、一人だと何もやる気が起きませんでした、、、そんな中、九州の地震が起きて、さらに落ち込んでしまって。
九州には何人かお友達が住んでいて、熊本大学には医師を目指すお友達がいます。いてもたってもいられず連絡すると、
「思ってくれるだけで十分、連絡くれたならもう十二分!」
と言ってくれました。
私の熊本のお友達はみんな、何日も安心して眠れていませんでした。睡眠もまともにとれない中何度も不安な夜を過ごすなんて、どんな精神状態になるのか想像もつきません。
それでも、連絡をくれた彼は数日もたたないうちに募金活動で駅前に立つような、強くて心優しい人です。
何かできることはと思うけれど、今私のようなふつうの大学生に現地でできることはほぼありません。せいぜいできるのは募金くらい。
それがやっぱりなんともつらかったのですが、彼の言葉で少し救われて、本当に大切なのはこれからだと思い出しました。
1年後、5年後、10年後、、、今何かできたとしても、そのあと被災地を忘れてしまったら意味がない。そして私が自分の手で何かできるとすれば現状が落ち着いたあとのそれからだと。福島で出会ってきた方々、訪れた場所に思いをはせました。
あなたはつらくなったりしていませんか?
被災地に知り合いはいないけれど、なんだかやる気がでない、調子が悪いなんてことはないですか?
また、今まで経験した地震を思い出してしまった方も、とてもつらい思いをされていると思います。
東日本大震災の時も、被災地の方だけでなく、被災地にゆかりのない方もストレスを感じていたそうです。
私もしてしまうなと思うのですが、連日のニュースなどを見ることで、"同一化"してしまうのだそう。
「あんな地震が私の住む町にきたら」
「地震に家が耐えられず崩壊してしまったら」
「大切な人を失ってしまったら」
誰でも考えることだと思います。もしかしたら、被災地にいなくても、程度の差はあれ心は被災するのではないかなと考えました。
被災地の方がこれだけつらい思いをしているのにとも思いますし、連日流れてくる報道で何が起きているのかを知ることも大切ですが、それにより自分が参ってしまわないように、上手に情報と向き合う必要があるのだと思います。
これがまたとても難しいことではあるのですが、、、
今回九州で大きな地震が起きた直後に、東北の方をはじめとする多くの人が、
「こんなことをするといい」
「こんなことに気を付けて」
などということを心配の声とともに発信していて、なんだかこみ上げるものがありました。
日本で生きていくなら、自然災害とは戦うのではなくうまく付き合っていかなくてはならないから、そのために遠く離れた人とも手を取り合っていくべきなのだなと。
そして、何よりも備え。
もう想定外だったとは言えません。私もできる限りの備えをしていきたいと思います。
今年の3月11日に福島で被災地まわりをして、実家に帰ってきて両親と話をしてまた泣いて、母になぐさめてもらった時。
「つらいことやつらい経験をした人と向き合うと、自分は幸せになっちゃいけないんじゃないかと思うけど、はるははるで楽しい時間を過ごして幸せになっていいんだよ」
そんな母の言葉に、そうか、そうなのかーーーと思ったのを覚えています。
難しいことだけど、これはきっと、いろんな人に言えること。
そろそろ抜け出して、私は私で生きていかなくては。
もう少し時間が経って、被害の全貌を把握できるようになってきたら、もう一度私にできることを考えたいと思います。
いい所だと聞いている九州には以前から行きたいと思っていたし、卒業するまでに行ってお友達に案内してもらいたいな。
まだまだ予断を許さない状況で、被災地の方々の精神状態は極限だと思います。
早く、早く穏やかな毎日が戻りますように。
春を迎えにゆく。
認知症で"わたし"は"わたし"でなくなるのか
昨日の勤務。
死因究明はだれのためのものなのか
大切な人の死が原因不明とされた時、死因に納得がいかない時。私はそれをどう感じるのでしょうか。
といっても最初は、解剖のような死因究明が必要な"死"なんて、あまり身近に感じられませんでした。
そういうことをするのって、法医学教室と呼ばれるところ?そういえば。私は母が見ていたドラマを思い出しました。
故人の今は亡き"声"を聞く仕事。漠然と深い意味のある仕事だなあと思った記憶があります。
日本では年間120万人以上が亡くなっています。警察に届け出のある変死、異状死事例は約17万人。7人に1人、想像以上に多く驚きました。そして、それらのうち約4%しか解剖されていない現状がある。
日本では、そのご遺体には犯罪性がないと検視で判断されれば、死因があいまいなまま処理される傾向があるようです。
ちなみに検視とは、五官、つまり視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚をもつ5つの感覚器官をつかって、ご遺体の状況を外表から検査するものです。
体を開かないのにどこまで正確な判断ができるのか。素人でも疑問を感じてしまいます。
欧米諸国では死因究明制度が整っており、解剖して死因を特定するのが当たり前であるのと比較すると、日本は死因究明に関して後進国なのではないかと考えざるを得ません。
どうして日本では解剖が進まないのでしょうか?
制度における歴史的背景があるようですが、「ご遺体を切り刻むなんて、、、」という風潮は生活していく中でなんとなく感じてきた気がします。
では欧米諸国ではなぜ死因究明のための解剖が浸透し、重要視されているのか?
最終的にたどり着いた私なりの結論。
死因究明とは、亡くなった方や遺族のためだけでなく、今を生きる、そしていつか死を迎える私たちのためにもあるべきだからではないだろうか、、、?
解剖による死因究明は、必ずしも犯罪を暴くためだけのものではありません。
「法医学者、死者と語る」の著者の岩瀬さんが、本の中でこんな事例を出していました。
今の季節、スキースノボを楽しむ方が多いですが、そんな時、突然の雪崩に巻き込まれてある人が亡くなってしまったとします。
窒息か?頚椎損傷か?凍死などの可能性も考えられます。検視のみではそういった詳細はわかりません。ただ、私たちの多くは、雪崩が原因だとわかっているのだから死因を細かく調べる必要はないのではと考えるかもしれません。
しかし、のちに遺族が
「苦しんで死んだのだろうか?」「死ぬまでどれくらい生きていたのだろう?」
といったことを知りたがることは珍しくないといいます。たしかに、その人が亡くなるその時までどう生きていたのか、私も知りたいと考えるのかもしれません。
また、「救助隊の到着が早ければ助かったのか?」といった救助体制への教訓を得るためにも、死因をはっきりさせるべきなのだそうです。これは間接的に私たちに繋がってくる視点だと思います。
さらに場合によっては、救出を試みた方が自分の努力が足りなかったせいで亡くなったのだと思い込み、一生悩み続けることもあるかもしれないとありました。死因究明はこういった第三者をも救える可能性を秘めているのだということに驚きました。
私はこの簡単な例だけでも、犯罪性が疑われずともご遺体を解剖し死因を特定することに多くのメリットを感じました。
もうすぐ東日本大震災から丸5年。亡くなった2万人近い方のほとんどの死因が「溺死」とされたそうです。
日本はそういった災害時の死因究明体制も不十分だったために、亡くなった方一人一人の詳細な死因特定はできなかったようです。
大切な人の死因に疑問を持つ人は時間が経つほど増えていくといいます。それは残された人たちを、
「どうして死ななければならなかったのか」「もしかしたら助けられたのではないか」
という感情から逃れられなくしたり、後悔や悲しみから抜けられない状況を生み出すことになるのではないでしょうか。
また、死因を適切な方法で特定することは、犯罪などにおける"真実"を知ることができるだけでなく、様々なシステムや対策の検討にも多大な影響を及ぼすのではないかとされています。
東日本大震災をはじめとする災害を教訓にした防災対策、これからも増えていくだろう孤独死に対する対策、日本では重大な問題として議論されている自殺への対策など、、、
様々な問題を法医学の視点からの意見も踏まえた上で議論できれば、社会の多くのシステムをよりよくしていくことができるのかもしれません。
日本の死因究明体制も、法医学者などが働きかけることで政府の動きがみられたりと、少しずつですが変わりつつあるようです。
私たちが犯罪捜査だけでない幅広い死因究明を必要とすること、その空気が社会の制度改革の後押しに多少なりとも繋がるのかもしれません。
東京都監察医務院『事業概要 平成18年版』には、異状死体の検案、解剖についてこうあります。
『人が受ける最後の医療である』と位置付けられ、生前に疾病に罹患すれば最高の医療が施されるべきであるのと同様に、異状死に対しては、最高水準の検案・解剖を行われなければならない。
突然やってくる大切な人の死。
法医学による死因究明に、"私たちは亡くなった人とどう関わり、何を学ばなければならないのか"という問を投げかけられた気がします。
私たちが人の"死"に向き合うことは、その人の"生きた証"と向き合うこと、そしてその後も変わらず生き続ける残された私たちが、自分たちの"生"に向き合うことなのではないでしょうか。
*参考文献
・法医学者、死者と語る 岩瀬博太郎
・死因究明 葬られた真実 柳原三佳
・我が国の検死制度-現状と課題- 中根憲一
http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/refer/200702_673/067306.pdf
・本当に溺死なのか——。死因に納得できず苦しむ遺族 戦場の被災地で法医学者が痛感した”検視“の限界
http://diamond.jp/articles/-/17024
・「死人に口なし」の姿勢で復興や防災はあり得ない ”悲劇の真相“を見つめる旅は、今ここから始まる——エピローグ~読者に託す「3.11の喪失」の検証
http://diamond.jp/articles/-/19185
大切な人の蘇生処置に立ち会いたいか
医療系ドラマでよく見るあのシーン。
患者さんが心肺停止状態で救急車で運ばれてきて、病院についたとたん、
「ご家族はこちらへ!」
殺風景な部屋へ通される。そしてわけも分からない状態のままひたすら待たされる。廊下でうなだれるシーンなんかもよく見かけます。
そして最後には、「最善は尽くしましたが、、、」
救急の病院実習をさせていただいて、蘇生処置への家族の立ち合いについて議論がなされているということを知りました。
蘇生処置時の家族立ち合いはイメージができなかったので予想はしていましたが、想像以上に日本では検討されていないように感じてしまいました。
現に、病院におけるマニュアル作成は1割に満たないとのことでした。
家族が蘇生処置に立ち会うことにどのようなメリット・デメリットがあるのか。山勢教授らの研究によると、
メリット:家族が今どのような状況なのかを理解できる、医療者が全力を尽くしていることを理解してもらえる、家族が最期まで一緒にいられるなど
デメリット:家族が精神的ショックを受ける、医療スタッフを増やす必要があるなど
といったことが挙げられていました。
海外では、立ち合いによって家族の心的外傷後ストレス障害(PTSD)の発症が有意に改善されたとの研究結果がでています。
メリット・デメリットは必ずしもすべての人に当てはまるわけではないですし、メリットをより感じる方もいれば、その逆の方もいるでしょう。
私は蘇生処置に家族が必ず立ち会うべきだとは思いません。
蘇生処置を受けるという深刻な状況の中で家族は、医療者や現場の雰囲気からもしかしたら自分の大切な人は死ぬのかもしれないと悟るようです。そのとき、家族も危機的な精神状態に陥っています。
大切な人との別れは精神的ショックがあまりに大きく、心の準備もままならない状態ならばなおさら、側でその人の死を受け止めることなどできない方もいると思います。
それに、たくさんのチューブや医療機器に繋がれた患者さんを見ているだけでも、想像以上につらいと感じる方が多いのではないでしょうか。
ただ、死を迎えるその人が危機的状況をどのように生きていたのか、そして最期の時まで懸命に生きる姿を、希望するならば家族は見届ける権利があるのではないかと思いました。
また、もし私が患者側でそれが最期の時間になるならば、家族に側にいてほしいと思うような気がします。蘇生できなくても、自分が最期まで生きる姿はきっと、残された人たちがそれからを生きていくことを後押ししてくれるのではと思います。時間がかかっても、きっといつかは、、、
家族の蘇生処置立ち合いが実現されるには、病院側の様々な準備も必要です。
今後体制が整われ、家族側に立ち合いの選択権が確実に渡るようになれば、私たちは大切な人との突然の別れとより最善の状態で向き合うことができるのかもしれません。
大切な人との別れは、人生の中で何度も経験しなければならないことだから。
だからこそ、もっと身近に感じて考えていけたらなと思いました。
*参考文献
・心肺蘇生処置中の家族の立ち会いに関する現状 および医療従事者の意識と家族の思い
研究代表者:山勢博彰(山口大学大学院医学系研究科・教授)
http://www.fasd.or.jp/tyousa/pdf/19yamaguchi.pdf
・N 病院における心肺蘇生処置中の 家族の立会いに関する医療従事者の意識と課題
服部裕子、藤本華織、松和代(徳島赤十字病院看護部)
http://www.tokushima-med.jrc.or.jp/hospital/medical/2015_full026.pdf
・心肺蘇生への立ち会い、家族のPTSDを抑制/NEJM
https://www.carenet.com/news/journal/carenet/34069