死因究明はだれのためのものなのか
大切な人の死が原因不明とされた時、死因に納得がいかない時。私はそれをどう感じるのでしょうか。
といっても最初は、解剖のような死因究明が必要な"死"なんて、あまり身近に感じられませんでした。
そういうことをするのって、法医学教室と呼ばれるところ?そういえば。私は母が見ていたドラマを思い出しました。
故人の今は亡き"声"を聞く仕事。漠然と深い意味のある仕事だなあと思った記憶があります。
日本では年間120万人以上が亡くなっています。警察に届け出のある変死、異状死事例は約17万人。7人に1人、想像以上に多く驚きました。そして、それらのうち約4%しか解剖されていない現状がある。
日本では、そのご遺体には犯罪性がないと検視で判断されれば、死因があいまいなまま処理される傾向があるようです。
ちなみに検視とは、五官、つまり視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚をもつ5つの感覚器官をつかって、ご遺体の状況を外表から検査するものです。
体を開かないのにどこまで正確な判断ができるのか。素人でも疑問を感じてしまいます。
欧米諸国では死因究明制度が整っており、解剖して死因を特定するのが当たり前であるのと比較すると、日本は死因究明に関して後進国なのではないかと考えざるを得ません。
どうして日本では解剖が進まないのでしょうか?
制度における歴史的背景があるようですが、「ご遺体を切り刻むなんて、、、」という風潮は生活していく中でなんとなく感じてきた気がします。
では欧米諸国ではなぜ死因究明のための解剖が浸透し、重要視されているのか?
最終的にたどり着いた私なりの結論。
死因究明とは、亡くなった方や遺族のためだけでなく、今を生きる、そしていつか死を迎える私たちのためにもあるべきだからではないだろうか、、、?
解剖による死因究明は、必ずしも犯罪を暴くためだけのものではありません。
「法医学者、死者と語る」の著者の岩瀬さんが、本の中でこんな事例を出していました。
今の季節、スキースノボを楽しむ方が多いですが、そんな時、突然の雪崩に巻き込まれてある人が亡くなってしまったとします。
窒息か?頚椎損傷か?凍死などの可能性も考えられます。検視のみではそういった詳細はわかりません。ただ、私たちの多くは、雪崩が原因だとわかっているのだから死因を細かく調べる必要はないのではと考えるかもしれません。
しかし、のちに遺族が
「苦しんで死んだのだろうか?」「死ぬまでどれくらい生きていたのだろう?」
といったことを知りたがることは珍しくないといいます。たしかに、その人が亡くなるその時までどう生きていたのか、私も知りたいと考えるのかもしれません。
また、「救助隊の到着が早ければ助かったのか?」といった救助体制への教訓を得るためにも、死因をはっきりさせるべきなのだそうです。これは間接的に私たちに繋がってくる視点だと思います。
さらに場合によっては、救出を試みた方が自分の努力が足りなかったせいで亡くなったのだと思い込み、一生悩み続けることもあるかもしれないとありました。死因究明はこういった第三者をも救える可能性を秘めているのだということに驚きました。
私はこの簡単な例だけでも、犯罪性が疑われずともご遺体を解剖し死因を特定することに多くのメリットを感じました。
もうすぐ東日本大震災から丸5年。亡くなった2万人近い方のほとんどの死因が「溺死」とされたそうです。
日本はそういった災害時の死因究明体制も不十分だったために、亡くなった方一人一人の詳細な死因特定はできなかったようです。
大切な人の死因に疑問を持つ人は時間が経つほど増えていくといいます。それは残された人たちを、
「どうして死ななければならなかったのか」「もしかしたら助けられたのではないか」
という感情から逃れられなくしたり、後悔や悲しみから抜けられない状況を生み出すことになるのではないでしょうか。
また、死因を適切な方法で特定することは、犯罪などにおける"真実"を知ることができるだけでなく、様々なシステムや対策の検討にも多大な影響を及ぼすのではないかとされています。
東日本大震災をはじめとする災害を教訓にした防災対策、これからも増えていくだろう孤独死に対する対策、日本では重大な問題として議論されている自殺への対策など、、、
様々な問題を法医学の視点からの意見も踏まえた上で議論できれば、社会の多くのシステムをよりよくしていくことができるのかもしれません。
日本の死因究明体制も、法医学者などが働きかけることで政府の動きがみられたりと、少しずつですが変わりつつあるようです。
私たちが犯罪捜査だけでない幅広い死因究明を必要とすること、その空気が社会の制度改革の後押しに多少なりとも繋がるのかもしれません。
東京都監察医務院『事業概要 平成18年版』には、異状死体の検案、解剖についてこうあります。
『人が受ける最後の医療である』と位置付けられ、生前に疾病に罹患すれば最高の医療が施されるべきであるのと同様に、異状死に対しては、最高水準の検案・解剖を行われなければならない。
突然やってくる大切な人の死。
法医学による死因究明に、"私たちは亡くなった人とどう関わり、何を学ばなければならないのか"という問を投げかけられた気がします。
私たちが人の"死"に向き合うことは、その人の"生きた証"と向き合うこと、そしてその後も変わらず生き続ける残された私たちが、自分たちの"生"に向き合うことなのではないでしょうか。
*参考文献
・法医学者、死者と語る 岩瀬博太郎
・死因究明 葬られた真実 柳原三佳
・我が国の検死制度-現状と課題- 中根憲一
http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/refer/200702_673/067306.pdf
・本当に溺死なのか——。死因に納得できず苦しむ遺族 戦場の被災地で法医学者が痛感した”検視“の限界
http://diamond.jp/articles/-/17024
・「死人に口なし」の姿勢で復興や防災はあり得ない ”悲劇の真相“を見つめる旅は、今ここから始まる——エピローグ~読者に託す「3.11の喪失」の検証
http://diamond.jp/articles/-/19185